Zenigata's Session Report

西へ

2004年4月10日 ウィルソン教授研究室

趙方は、霊帝のとき、長安の人であった。世の乱れているのを嘆いていたが、仁宇という仏僧から西方浄土の話を聞き、直ぐに家を出た。仁宇は、半刻に5合以上水の出る不思議な皮袋をくれ、礼を言おうと思うとそこに姿はなかった。仙人だったのだろう。

砂漠を越えて象の住まう国に着いたが、そこには浄土なるものはないという。ある人が、さらに西には別の国があると言うので、旅の商人たちについて向かった。波斯、羅馬という二つの国で尋ねて周ったが、誰一人として知らず、嘲り笑った。かつて陳勝は、高い空を飛んでいる鳥の志をどうして小鳥が知っていようか、と言ったが、まさにこれを言っているのであろう。

さらに西へ行くと蛮族が住んでいた。呂支□という男が、蛮族に妹をさらわれたというので助けに行くと言い、私もそれに加わることにした。□夷汰という屈強な詩人を連れていた。そこは羅馬の支配のおよびにくい土地で、岬から遠目に見える島で、魔物も住む。幼少の頃に聞いたところでは、蓬莱山に至るには、幾つかの魔境を通らねばならないというが、おそらくこのことであろう。

[途中は削れていて読めない]

そこに入れば怪物になって出てくるという、呪われた穴の前に立ち、これを記す。これからその魔物を退治しなければならない。もしも私が死んでいたら、読んだ人よ、そのことをどうか遠く長安の父母に伝えて欲しい。もしそうでなければ、私は海を越えて西へ向かいたいものだ。

「へぇ……これがスコットランドからねぇ……」

「そうなんです。年代はA.C200年前後だと推定されますが、誤差は20年程度です。ここに出ている人名は、実在していたのか確証が取れませんが」

ウィルソンはそう言うと、石版を布に包んだ。

「しかし、彼がそこから西へ向かったとすると、アメリカに上陸していた可能性も出てくるわけで、夢は尽きません」

「ハッハッハッ、まさか。アメリカに上陸するなんて。航海技術が未熟なあの時代には不可能ですよ」

「ところがそうでもないんです」

「は?」

「そうではないんですよ、銭方さん」

そう言うと、彼は一枚の写真を出した。

そこには一枚の石版の石版が写っていた。

趙方はついに見知らぬ土地へと行き着いた。ここは獣を崇める蛮族の住む土地であった。かの島より船で二月以上も西へ向かったところにある。

しかし、ここにも浄土はなく、血と魔性があるだけであった。時を渡りし者たちに聞いておけばよかったと、後悔した。

□□の私の眷属は一人もなく、ただ□□□族ばかりが幅を利かせている。しかし、砂漠と海を渡った南にある土地の者は、部族に危険が訪れると神が西へ海を越えて彼らを運び、助けてくれると言う。彼らは人の首を蹴鞠にして遊ぶ奇妙な習慣を持つ者たちであったが……

「…………」

「先月、ペルーで発見したものです」

そこにあったのは、紛れもない漢詩文であり、趙方の二文字が冒頭に燦然と輝いていた。銭方は、なんと言っていいのか、途惑った。

「その□の部分なんですが、スキャンしたら、“ボリ”という文字が浮かんできましてね。もう一つの方は完全に潰れていて分からなかったんですけれど、目下のところ、そのワードを頼りに探している最中なんです」

もしかしたら、初めてアメリカを発見したのは中国人になるのかもしれません、と彼は付け加え、領土問題に発展しかねませんな、と言って笑った。

230年 九十九里浜

嵐の明けた朝。ある村民の一人が、海岸に一艘の葦舟が流れ着いているのを見つけた。恐る恐るそれを覗き込んでみると、一人の老人が倒れていた。息はなかった。

その格好は至って奇異であり、腰蓑をつけ、恐らく革でできているのであろう朱塗りの靴をはき、上半身には甲冑をまとい、刀を差していた。土地の豪族はそれを聞き、その甲冑と刀を取り上げ、見つけた村民には何も見なかったことにするように言い含めた。そして、船に火をかけて燃やした。

その焼け残りの中に、なにやら漢字を書き付けた石板があった。

漢字に対する神秘性のようなものは、この時代の倭の人々の間では、至極当然のようなところがあった。古墳群から出土する刀剣などからでも、それは明らかである。当時の後進国であったこの国は、先進国であり強力な文化をもつ漢に対してある種の神秘性を感じていたのであろう。

それにも関わらず、この時、その豪族は石板を粉々に砕き、そして痕跡になりそうなものは全て、ゴミ捨て場に捨ててしまった。

理由はわからない。単にその素晴らしい刀剣を自分のものにしたさにそうしたのか、それともそれが漢字であることが理解できなかったのか。

後に貝塚となって発掘されたそこから見つかった石板には、急いで彫り付けたと見えて、ひじきをこぼしたような文字があった。そしてそれは粉々に砕かれたせいで、何が書いてあったのかを推測することができない。

歴史家たちは、それを巡って果てしない論争を繰り返し、邪馬台国関東説の論拠として一躍脚光を浴びるかに思われた。しかし、戦争突入前のイデオロギー的な要請もあって、政治的圧力はそれを圧殺した。さらに戦後の混乱の中で欠片は失われ、また数々のほかの証拠がそれを否定した。彼らの記憶の中からも、完全に消えてしまったのである。

趙方の偉業は、現在、誰の記憶の中にも残っていない。人狼社会の中にさえ、その偉業を伝えるものはない。彼は「イカレ」た人狼であり、大陸間移動など、ムーンゲート ・ブリッジを使えば済む話なのだから、当然の帰結と言えば当然であった。

かすかにその跡をとどめる石板は、ウィルソン教授の手によって学界へ紹介されたが、その突飛さゆえに黙殺され、新聞もそれに同調した。そして、でっち上げとして非難されさえしたのである。彼は一年後、失意のうちに癌で死亡し、残された石版もその中で失われてしまった。オカルト雑誌だけは当初この話題で盛り上がったものの、それも一月あまりであった。

あのクライブは、その後に大和朝廷へ献上され、今度は別の有力な豪族に下賜された。

どこをどう経たのかは定かではない。持ち主が幾度となく名匠に打ち直しを頼み、その度に鋭利さは増し、形は少しづつ変わった。その中には、岡崎正宗も含まれていた。

現在、それはとある日本人剣術家の人狼の持ち物となっている。偶然かどうかは知らないが、銘は「方燐」と言い、その一字をとどめていた。その持ち主もまた、そのクライブを片手に世界を巡る中にある。

時代がいかに流れようとも、その刀は趙方の志を受け継ぎ、持ち主は、新たな世界を、新たな時代を切り開こうとした。彼の名は歴史には残らなかったが、その志はその刀に、そしてグラスウォーカーという部族に脈々と受け継がれている。彼らはまだ見ぬ「浄土」を探して、西へ向かい続けているのである。